#ANNnews 13歳少女の昭和20年 原爆投下前日、8月5日で途切れた日記 最期の言葉 遺族の決断【羽鳥慎一モーニングショー】(2025年8月15日)
13歳少女の昭和20年 原爆投下前日、8月5日で途切れた日記 最期の言葉 遺族の決断【羽鳥慎一モーニングショー】(2025年8月15日)
15日に80年目の「終戦の日」を迎えました。広島の原爆による被爆者の平均年齢は86歳を超え、証言者が減っていくなか、「被爆して亡くなった13歳少女が8月5日まで書き綴った日記」が今年、注目を集めています。
■原爆投下までの日記 綴った日常
森脇瑤子さんの日記 原爆投下122日前
4月6日 金曜日 晴れ
「昭和二十年度の入学式が挙行された。かねて永年あこがれていた第一県女の生徒になったのだ。日本の女学生として、はづかしくないやうに日々の生活に心掛け、一生懸命に、がんばろうと思ふ」
1945年4月、憧れの中学校「広島第一高等女学校」に進学した森脇瑤子さん。日記の始まりは、希望に満ちたものでした。
原爆投下117日前
4月11日 水曜日 雨後晴れ
「今日はじめて、家事というものを習った。なかなか面白い。大好きだ」
原爆投下115日前
4月13日 金曜日 晴れ
「今日、はじめて、あの、憎いB29を見た。飛行雲を長く美しくひいて広島の上空を、せん回して去った。ほんとうに、くやしかった」
戦争中の広島。宮島で母親と暮らしていた瑤子さん。父親はこの時、中国へ出征していました。
原爆投下96日前
5月2日 水曜日 晴れ
「今日は、家事で、私達も、やがては母となり、家政の道にいそしむやうになり、赤ちゃんも育てるやうになるのですから一生懸命にやりました」
原爆投下93日前
5月5日 土曜日 晴れ
「今日は三校時目に、警報が出て、早く帰宅した。敵機来襲ということで、すぐに待避した」
瑤子さんには、広島市内で暮らす4つ上のお兄さんがいました。
原爆投下55日前
6月12日 火曜日 晴れ後曇り
「浩史ちゃんが汽車で、九州へ旅立った。危険であるからどうぞけがが、ないやうにと思ひます。神様どうぞ浩史ちゃんを、お守りください」
逓信局に勤めていた兄の浩史さん。本土決戦に備え通信網を配備するため、九州へと派遣されていきました。
原爆投下53日前
6月14日 木曜日 曇り後晴れ
「今日は、吉島飛行場へ作業に行った。吉島飛行場を耕して、さつまいもと大豆を植えるのである」
原爆投下51日前
6月16日 土曜日 晴れ
「日記を書こうとした時、停電になり、しばらくしたら、パッとつき、さあと思ったら、またパッと消えてしまった。残念であった」
7月に入ると、日記には「空襲」という言葉が増えていきます。
原爆投下13日前
7月24日 火曜日 晴れ
「空襲のため、学校へは行かなかった。一日でも、敵のために、授業をさまたげられると思ふと、残念でならない」
原爆投下12日前
7月25日 水曜日 晴れ
「昨日と同じように、空襲のため、学校には行かなかった」
原爆投下9日前
7月28日 土曜日 晴れ
「今日も、小型飛行機が来襲した。厳島の上空を進んで行く姿を見ると、憎らしくて、憎らしくて、ならなかった」
そして8月5日、原爆投下の前日。
原爆投下前日
8月5日 日曜日 晴れ
「昨日叔父が、来たので家が大へんにぎやかであった。『いつも、こんなだったら、いいなあ』と思ふ。明日から、家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思ふ」
「一生懸命がんばろうと思ふ」。これが最後の言葉となりました。
8月6日午前8時15分、瑤子さんは爆心地からおよそ800メートルの場所で被爆。その日の夜、息を引き取りました。
8月5日で途切れた日記。空白になっていた次のページには、戦地から戻った瑤子さんの父親が妻から聞いた瑤子さんの最期について綴(つづ)っていました。
8月6日 月曜日 晴れ
「かわいい瑤子ちゃん。毎日、父の帰りを待って、したためていた日記の最後のページを、戦い敗れて帰ってきた、淋しい父が飾ります。八時十五分、あの恐ろしい原子爆弾に直接被爆し、全身やけどの重傷を負って待ちこがれていた父母にもとうとう会えず、『お母さんは、まだ…』と言いながら、一人淋しく息を引きとりました。午後11時24分でした」
■遺族の決断「命のバトンを渡す」
今年で被爆80年となった「平和記念式典」。多くの人が追悼の意を捧げるなか、平和公園から800メートルほど離れた瑤子さんが被爆した場所には…。
瑤子さんの甥 細川洋さん(66)
「当時、瑤子さんの目にどういうふうにこの景色が見えていたのか。ちょっと胸が熱くなりますね。ここに来ると」
「(8月6日に)この現場に来たのは初めてですね。父は、ほぼ毎年来ていたと思うんですけど」
日記に書かれていた瑤子さんの兄・浩史さんは、「妹の生きた証を残したい」と瑤子さんの日記を大切に保管してきましたが、おととしこの世を去りました。
細川洋さん
「2年前の11月26日に父(浩史さん)が95歳で亡くなったんですけれども、生前の瑤子ちゃんを直接知っている人がこの世に誰もいなくなった」
終戦80年の節目を迎えた今年、瑤子さんの日記に変化がありました。
細川洋さん
「父が元気なころは『一緒に棺おけに(日記を)入れて燃やしてくれ』と言っていたけど、晩年いずれ(資料館に)寄贈しようと思うと伝えたら『それは良いことだね』『瑤子も喜ぶと思うよ』と言ってくれたので、良かったと思いました」
浩史さんの想いを受け、日記を原爆資料館に寄贈することにしたのです。
細川洋さん
「私の祖父母と父が80年大事に保管してきた資料です。原爆資料館に委ねようと思いますので、どうかよろしくお願いいたします」
日記帳のほか、教科書やノートなど瑤子さんの遺品およそ40点を寄贈した洋さん。
「これが『命のバトンを渡す』ということだろうと思うので、父のように体験した被爆者のようには語れないんですけれども、しかし父が体験した話をそのまま語ることはできるし、自分の想いを加えて人の言葉として伝えていく。これが一番大事なのかなと思いますよね」
(「羽鳥慎一モーニングショー」2025年8月15日放送分より)
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